コンセプト

いつ頃からか「欲しい車が無い」「走れば何でも良い」ということを良く耳にするようになった。しかし、彼らに昔は欲しかった車があるかと訊けば「もちろんあった」と答える。ではそれに今乗りたいかと訊けば「乗りたいがメンテだの故障だのが心配だ」と答える。

そこで、ではそれが故障しなければ乗りたいかと訊けば「そんなことが可能であれば それなりの金額を払ってでも乗りたい」と答える。要するに今はそれなりの金額を払ってまで欲しい車が無いのだ。

もちろん2000万円を超える金額を車に払えるならば現在の新車の中に魅力的なものもある。

しかしそれはあくまでも「one of them」。

V8のFerrariくらいなら都心をちょっと走っただけで うんざりするほど自分と同じ車に遭遇するだろう。あのAston Martin DB9ですらデビュー当時は六本木を席巻してしまったのだ。6000万円のRollsであったとしても、ちょっとしたホテルのエントランスの前に数台が重なってしまうことも珍しいことではないだろう。

新車は数年経てば色褪せる。何より飽きるのだ。それには色々な要素が絡んでいるが、やはりスタイリングが大きなファクターだと思われる。

では、何故古い車が人々を魅了するのか。

自動車のデザインは大きく変わった。生産性や空力特性そしてクラッシャブルゾーンの確保など制約が 大きくなったことは事実だが、何よりそれらの制約に対応するためにデザイナーはペンを捨て、 コンピューターを用いてデザインするようになったことが一番大きな要因であろう。そのためメーカーは 違えども同じようなデザインの車が氾濫した。そこでヨーロッパのメーカーは差別化を図るために自社のかつての名車のモチーフを随所に散りばめたのだが、これは暗に昔のデザインが優れていたことを示しているのではないか。ミケランジェロやガウディの作品にCADは使われていない。本当の美しさは数値には現れない。人間の情熱や閃きはコンピューターにはないのだ。 古い車がスタイリングで人々を魅了することは難しくない。しかし実用性に於いて現代の車には遠く及ばないことは否定できない。趣味としての「古い車」はもちろん今に始まったことではない。しかしその業界に永く蔓延った「オリジナル至上主義」から脱却し、現代のテクノロジーや素材をふんだんに使い、あくまでも「Daily driver」として、クールにさりげなく大人が乗れる車をプロデュースすることがこのコンセプトである。さりげないクールな大人の為の車である。

そして「古い車だから」と我慢を強いられることなく、気楽に毎日乗れる車をプロデュースすることが現代の技術を投入することにより可能なのである。

最新技術によるアップデート
一度は息絶えてしまったそれらの機関が再び息を吹き返し蘇る様を目の当たりにすると、何度も経験していても今だに心を動かされます。当社では数十年前のそれらの機関をO/Hするときにも、当時はなかった最新の技術を用いて見えない部分のアップデートを施します。

今の時代、ノーマルのまま組みなおしたとしても当時の新品よりも良いものが出来て当たり前だと考えています。また、電気周りなどは日本の技術が最先端であり、これらの技術をクラシックに投入し「壊れないクラシック」を造り上げることが可能です。欧米の名立たるクラシック専門業者でさえこの部分では詰めが甘いように感じています。日本の技術力を存分に活用して「Made in Japan」を日本国内だけでなく、欧米や中東そしてアジアの新興国に向けてアピールします。

日常の足にClassic Carという選択
私共のショップでは欧州の所謂「クラシック」を主に扱っています。「クラシック」とはただ年数を経た結果そう呼ばれるのではなく、数十年を経ても尚、色褪せるどころか更に魅力を増していくものを指します。クラシックに憧れはあるものの、信頼性やメンテナンスに不安がある方が殆どでしょう。有名店でメンテナンスを受けたところで数十年前の基準に近づくだけであり、現代基準の信頼性には程遠いものです。

私達はクラシックの姿形とDNAはそのままに、各部に現代の技術を投入し、デイリーユースに応えることが出来る自動車を提供します。例えば「メカニックの悪魔」と揶揄された80年代のマセラティに信頼性を与え、快適な自動車に変身させることも可能です。なぜこのようなことが可能なのか?それは現代の技術ではそれが当たり前だからです。特に日本の基準では、壊れないのが当たり前なのです。「古い車だから」と我慢を強いられることなく気楽に毎日乗れる車をプロデュースすることが、 現代の技術を投入することにより可能なのです。